稲盛和夫さんのメンタルブロックとは?


日本を代表する経営者、

故・稲盛和夫さんの

メンタルブロックとは?

 

京セラを創業、一代で一兆円を超す

世界的企業に育て上げ、52歳の時

に創業した第二電電はKDDIと

なり、5兆円を超すマンモス企業へ。

 

2兆3千億円の負債を負って倒産

した日本航空の再建を託され、

会長に就任したのは78歳。

 

就任1年目に1800億円の利益、

翌年も2000億円の黒字を計上、

就任後2年8か月で再上場を果たす。

 

稲盛さんを塾長とする経営者勉強会の

盛和塾は、36年間活動し、

1983年から2019年の閉塾時

には国内外に塾生約15000人。

 

そんな稲盛さんは、2013年の

講演会で、このようなお話をされて

います。

 

◆因果の法則に従うことで

好転した私の人生

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鹿児島市内に生まれ、第二次世界

大戦の最中、県で一番優秀な鹿児島

一中という旧制中学を受験しました

が、合格することができません

でした。

 

戦時中に鹿児島市内は空襲に遭い、

印刷業を営んでいた私の実家も焼け、

父親は仕事を失ってしまいました。

 

両親のもとに7人兄弟。

 

大所帯の中で焼け野原の中、食糧難

でたいへん苦しい貧乏な生活を

送りました。

 

とても大学などには行けそうにない

状態だったのですが、高校の先生

が両親に強く勧めてくれたおかげ

で、なんとか大学には進むことが

できました。

 

しかし、第一希望だった大阪大学

医学部には合格せず、せんかたなく、

地元の鹿児島大学工学部応用科学科

へ入学。

 

やがて卒業の時期が来て、就職の

時が来ました。

 

しかし、私が大学を卒業した昭和

30年は、まだ戦争が終わって

10年しか経っておりません。

 

いたるところに戦争の焼け跡が

残ったままになっていた時代です。

 

同時に、朝鮮戦争が終わったこと

による不況で就職難となっていま

した。

 

どの会社も大卒を採用してくれ

ません。

 

いくら成績が優秀であっても、

地方の大学を出た学生が中央の

一流会社に採用してもらうこと

など、到底不可能な時代でした。

 

そんな私を見て、大学の先生は

不憫に思ったのでしょう。

 

いろいろと走り回ってくださった

末に、京都の焼き物の会社を見つ

けてくださいました。

 

そこは松風(しょうふう)工業

という電力線用の碍子(がいし)を

つくっている会社でした。

 

入社してみますと、歴史はある会社

でしたが、戦後ずっと赤字を続けて

いる会社であることがわかりました。

 

そのため、「ボーナスを出せ、昇給

せよ」と毎年労働争議に明け暮れて

おりました。

 

私も入社の翌月から給料が払えない

と言われ、最初の給料から1週間も

2週間も遅れて給料がもらえると

いうような会社でした。

 

4月に入社して、その年の秋頃には、

同期で入った大卒4人は皆辞めて

いき、私1人だけが残ってしまい

ました。

 

しかし、就職難の時代。

 

辞めたところで行くあてもあり

ません。

 

また、私には兄さんが1人、弟や妹

があと5人いて、その弟や妹たちの

面倒もみなければならない。

 

それなのに就職難の時代に、行く

あてもないのに会社を辞めるわけに

はいきません。

 

せんかたなく、私は会社の粗末な

研究室で、命じられた新しい時代に

必要となるファインセラミックスの

研究に没頭し始めました。

 

研究室に泊まり込み、自炊をしな

がら、連日のように研究に没頭

していった理由は、

 

現実の厳しい社会、そういうもの

から逃避しようと思ったのが、研究

に没頭した理由なのかもしれません。

 

当時、朝ご飯を3食分釜で炊いて、

おかずはネギが入った味噌汁だけ。

 

ネギを買ってきて刻んでは、ばらばら

と入れて、あとは味噌汁、そこへ

天ぷらのかすを分けてもらってきて、

天かすをばらまく。

 

毎日3食、ご飯と味噌汁だけで

暮らしながら研究に没頭。

 

不平不満を漏らし、自分の人生を

腐らせていくよりは、今、目の前

にある研究に没頭しよう。

 

そのように心の中に不平不満を

持たず、純粋に研究へ没頭していく

ようになってまいりますと、立派

な研究設備などなかったにもかか

わらず、

 

創意工夫をして次から次へと研究を

進めていくに従って、素晴らしい

研究成果が出るようになってまいり

ました。

 

その結果、上司に認められるように

なり、学会で発表すれば多くの学者

からも褒められるようになりました。

 

そうなれば、さらに元気がでて

きます。嬉しくなってきます。

 

そうして、さらに研究がうまくいく

ようになります。

 

そのように、次から次へと善の

循環が始まりだしたのです。

 

私の運命が好転するようになった

のは、ここからでした。

 

そういう経験をしてきただけに、

私が先ほど言いましたこと、つまり、

災難や幸運を神が与えてくれた試練

として受け止め、

 

前向きにひたすらに明るく努力を

続けていく生き方をしていきたい

と素直に思えるようになったと

思います。

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参考

雑誌 致知2022年12月号

 

 

そして、京セラ元社長 伊藤謙介氏

は、このように言っています。

 

◆血判状を交わして京セラを設立

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稲盛は、松風(しょうふう)工業で

新しいセラミック材料の開発に成功

して松下電子工業にその材料を

使った製品を納めていたわけですが、

 

会社の幹部の中には稲盛がやること

を面白くない人もいて、確執のよう

なものがあったように思います。

 

結局、ここでは力を発揮できないと

腹をくくった稲盛から、「一緒に

新しい会社をやらないか?」

と誘われたんです。

 

稲盛には、ただ仕事の実務だけでは

なく、人間の生き方についての話も

よく聞かされていました。

 

仕事や人生を包括的に考えている

素晴らしいリーダーだと実感し、

非常に尊敬していましたから、

声をかけてもらって嬉しかった

です。

 

ぜひこの人についていきたいと思い、

「やります!」と即答しました。

 

1959年、稲盛が27歳、僕が

22歳の時でした。

 

稲盛の下には7人が集まり、いざ

計画を実行する時に皆の本気を

確認するため、血判状を交わした

のはいまでも鮮明に記憶に残って

います。

 

6畳間の真ん中に置いた一升瓶を

囲んで車座になり、巻紙に順番に

名前を書いて、指先にカミソリを

入れて血判を押したんです。

 

皆血気盛んな若者でしたから、

否が応でも意気が上がり、日本一、

世界一のセラミック・メーカーに

絶対になるんだと皆が燃えました。

 

稲盛は、皆のエネルギーを引き

出して集中させる力に長けて

いました。

 

京セラの創業当初から「まず工場

を構えた地元・西ノ宮原町一に

なろう。

 

次は、中京区一。

そして京都一、日本一、世界一の

セラミック・メーカーになるんだ」

 

と事あるごとに言い続けて、社員

全員が、何が何でもこれを実現しな

ければいかんと本気で思っていま

したからね。

 

その勢いこそが、京セラが成功した

原動力だったと僕は思うんです。

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参考

雑誌 致知2022年12月号

 

 

そんな稲盛さんには、どんな

メンタルブロックがあった

のでしょうか?

 

そして、そのメンタルブロックを

どのように解放し、書き換えて

いったのでしょうか?

 

私が稲盛さんを学ぶと大きく2回、

見えてきます。

 

 

日本航空元会長補佐

専務執行役員

(京セラ元取締役

執行役員常務)

大田嘉仁氏 

 

および、稲盛和夫さん本人は、

このようにお話されています。

 

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◆1回目

稲盛さんは、12歳の時、結核を

患ったことで、その時に成長の家の

『生命の實相』という本を読み、

心に抱いたことは現象になって

表れるという教えに深く共感された。

 

稲盛さんは、「怖くなったんだ。

悪いことを思ったら、悪いことが

起こる。だから常に善いことを思い

続けなきゃいかんのだ」

と話していました。

 

結核になって死を直視する体験を

されたことから、そのことが徹底的

に心の中に刻み込まれ、大成の原点

になったんだろうと思うんです。

 

 

◆2回目

京セラ創業25年の時、人工ひざ

関節のバイオセラム薬事法違反問題

が起こりました。

 

厚生省(当時)とよく打ち合わせを

し、整形外科のお医者さんも集まって

相談の上でやっていました。

 

ところが、腰関節は許可を受けて

いたけど、ひざ関節はまだ受けて

いなかった。

 

同じ材料ですし、腰の関節に入れる

のと、ひざに入れるのと形が違う

だけのものですからお医者さんも

「大丈夫ですよ、医者が責任を

持ちますよ」とおっしゃる。

 

厚生省に連絡してみると、それは

本当は個々にとらなきゃならん

けれど黙認しますと言われたんで

やっていたところ、訴えられた

んですね。

 

すると厚生省も、「けしからん、

法律違反だ」と言うし、大変な目

にあったんです。

 

また、京セラのICパッケージが

アメリカの巡航ミサイルに使用

されており、武器輸出三原則に抵触

するとか、社会から徹底的に叩かれ

ました。

 

そのためバイオセラムの製造部門

は、一時的に閉鎖に追い込まれ、

稲盛さんは猛烈な批判を浴びて体調

も崩されました。

 

稲盛さんは、当時を振り返って、

「本当に死にたいと思ったぐらい

だった」と話していましたけど、

それほどメディアの批判は凄まじ

かったようです。

 

ブラック企業の「京セラ」と揶揄

され、買収した会社の組合の人たち

に稲盛さんを糾弾するビラを自宅

近くのあちこちに貼られて、それ

を毎朝子供さんたちと一緒に

剥がしに行く。

 

一時期は三叉神経痛を患って入院

されるほど強烈なストレスにさら

されたそうです。

 

悩みに悩んで訪ねたのが、若い時

から師事されていた臨済宗妙心寺派

第31代管長で京都円福治の

西片(にしかた)たんせつ老師。

 

「老師、こういうことが起きて・・」

と話したところ、老師はケロッと

して、

 

「それはあなたが生きているから

ですよ。生きているからそういう

ことになる。いいじゃありませんか。

 

善因善果、悪因悪果。

 

これによって過去の業(ごう)が

消えたんだから、お祝いをしな

ければいけません」

と言われたそうです。

 

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参考

雑誌 致知2021年4月号

 

他にも、いろいろあったと思います

が、これらの体験によって、善いこと

を思い、善いことを行わなければ

ならないという思いが一層深まり、

 

盛和塾では手弁当で経営者を育て、

私費で京都賞を創設して優れた研究者

を表彰し、第二電電を創業して国民

のために電話料金を劇的に下げるなど、

善いことをさらに徹底して実行して

いかれたようです。

 

普通は、そこまで凄まじい逆境に

直面すると、心身ともに傷つき、

恨みつらみがメンタルブロックと

なって、身を崩してしまうことに

なりかねません。

 

ですが、稲盛さんはそれを真正面から

受け止め、さらに善き思いを持とうと

ポジティブなエネルギーに転換して

乗り越えていかれた。

 

それが潜在意識・無意識に、しっかり

定着し、ビジョンを次々と実現して

いった原動力になったようです。

 

稲盛さんは、それを”真我”と表現

していますね。

 

あなたは、このストーリーを読んで

どう感じましたか?

 

私は、メンタルブロック、メンタル

トレーニングのクライアントさんや

ご相談者さんなど、経営者や幹部、

自営業者さんなどからも同じような

ことを、よくお聞きします。

 

予想外の出来事が切っ掛けで、

とんでもない状態になった。

 

通常は、

『このピンチを、どのように

チャンスに変えるか?』

 

そう思ってやっているけど、限界を

超えてしまって、どうしていいか

分からない。

 

その切っ掛けには、

・幹部や部下がお金を持ち逃げ

・幹部や部下がノウハウ、顧客名簿

を持って競合へ転職・独立

・幹部や部下が他の社員を連れて

競合転職や独立、などの裏切り

 

・ハードクレーマーのお客さん

・取引先の無理な押し付け

・競合の足引っ張り

・濡れ衣、言いがかり

・社会からの誹謗中傷

・経営の重責・プレッシャー

などなど。

 

そんなことがあると、これらの自分が

出てくることがあります。

 

・怒っている自分

・傷ついている自分

・傷ついている自分をダメだ、弱い

と批判している自分

・怒りを人前で出すことはダメだ、

悪いと思っている自分

 

これらの気持ちや、心の中の自分

(インナーチャイルド、副人格とも

呼びます)が、相互作用し、ループ

することで強化増幅されて、

 

さらに苦しくなり、感情コントロール

不能になってくる場合があるんですね。

 

特に、怒りが憤怒のように激しい場合

は、メンタルブロックが関係している

と言えます。

 

『頭では分かるんだけど、なかなか

そう思えないんですよ』

 

そう思われている方には、お力に

なれますよ。

 

セルフイメージコンサルタント

岡崎哲也

 

 

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